10年2月4日(木) 赤穂十七義士慰霊祭
大石内蔵助ほか赤穂義士たちが吉良屋敷へ討ち入りした元禄16年の翌年、義士たちは将軍綱吉から切腹を言い渡されました。
細川家お預けとなった十七義士は2月4日の夕刻、江戸細川邸にて切腹しました。この時、接待役をしていた細川家の家臣、堀内伝右衛門勝重は義士達の武士としての作法に大変感銘を受け、義士の遺髪を持ち帰り、山鹿市にある日輪寺に遺髪塔を建立しました。
※彼が残した「堀内伝右衛門覚書」は、赤穂義士の討ち入り後の様子を記す貴重な史料として、現在は国立公文書館に所蔵されています。
日輪寺では毎年のこの日、十七義士の供養として慰霊祭を行っています。私も今日は赤穂義士に思いをはせながらお祈りしてまいりました。
赤穂義士の武士道に関しては、討ち入りの仕方など論議がありますが、当時の日本の武士としての心得を体現していたのではないかとも思えます。