06年2月3日(金) 私のサラリーマン時代 《ソニー株式会社》

●体制の異なる国を理解する貴重な体験
 早稲田大学を卒業して、昭和五十五年から二年間、中国の大学へ留学しました。地元・熊本の大先輩、園田直さんが外務大臣でしたし、日中平和友好条約を発効したばかり。
世界一の人口を抱えた体制の異なる国と日本が、今後どういう付き合いをしていくのか興味がありました。

 中国語は一年で日常会話を覚え、二年目で何とかマスターしました。中国語自体が文法や発音にあまり厳しくなかったのは幸いでした。
総合的な社会勉強だと思い、留学中は積極的に旅行をしたものです。鉄道、バスとヒッチハイク、といっても当時はそんな言葉もありません。自家用車はないので、せいぜい貨物トラック。それと荷馬車や自転車に乗せてもらいました。
食糧配給券を持てない外国人は、ちまたのパン屋で列に並んでもパンが買えません。隣の中国人が配給券を譲ってくれたので本当に助かりました。その後のビジネスマン時代を含めると、中国の大部分の省を訪れたことになります。

 ソニーに入社したのは、買い物や修理で顔なじみだった北京のソニー店の日本人に語学力と粘り強さを評価され「一緒に仕事をしよう」と誘われたのがきっかけでした。
 入社して三年間は東京本社で中国を中心にマレーシア、シンガポールなど東南アジアを対象にした市場開発と貿易を担当しました。出張、あるいは電話、テレックス・ファクシミリを駆使して現地のソニー総代理店とのやりとりでした。

 後半の二年間はソニー香港で産業用機材部門を立ち上げました。商品販売のルートづくり、仕入れから在庫管理、出荷、アフタサービスと、少ない人数ですべてやりました。自慢は、香港駐在中に一度も代金の取りはぐれがなかったことです。
 私が担当したのは放送局や学校教育向けのカメラ、ビデオ、編集機材等のシステム販売で、高価なものだと一億円以上します。当時、近代技術導入を希求する中国マーケットに支えられ、二年目には二百億円を売り上げました。
 現在と同じ“金帰月来”で、ウイークデーには香港から中国本土へ出張。孫子の兵法、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」です。敵じゃないけど中国を知るため、現場主義で自分自身の感触を大事にしました。私には通訳はつかず一人で乗り込み、直接ユーザーと交渉して契約を取ってきました。それをベースに機材の仕入れ、出荷、代金回収までつなげていくのは、結構エキサイティングな仕事でした。
 課長を除くと、あとは現地の若い男女と私の三人でこなしました。仕事が終わるのは毎晩十時過ぎ。ポケットマネーでラーメンやお粥をご馳走しました。結局、その女性スタッフと結婚することになりました。出張をまじえ朝から夜までの仕事。お互いほかにチョイスがなかったのですね。

 今思えば、ソニーは面白い会社です。新人教育や引き継ぎは少しだけ。「新しく来た者が好きなようにやれ」という主義ですから、自分で考えて仕事に責任を持たざるを得ない。人使いがうまいのですね。
 短い期間でしたが、ソニーを五年間で退職して、家業の農園と福祉事業を継ぐことになりました。父が病に倒れ、人工透析を受けていたのです。香港での二年間は特別に手応えがあっただけに、離れがたいものでしたが、決心しました。

帰郷後は施設運営と企業経営にかかわる傍ら、青年会議所の役員として町おこし、農業振興を応援するうち、周りにおだてられ熊本県会議員となりました。
 そして平成七年の参院選。県議の先輩が野党からの出馬を決めたので、「若い三浦が自民党から出るしかない」と、またしてもおだてられて出馬し、無事当選して二期目になります。

 サラリーマンとして各国のビジネスマンと付き合ってきたことで、国際化時代の中の日本のあるべき姿が見えたような気がします。特に中国は、留学を含めて七年間の接点があり、体制の異なる国を理解する上で、かけがえのない経験をしました。

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